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イギリスの夏は、、、またもやおわってしまったのだろうか。。きっとそうなのだろう。。

あまり天気のことばかりかいてもしょうもないので、



「あああーーーーーーー雨がおおくって、みずみずしく、木々、葉の緑がとてもきれいだわーー」


とだけ書いておこう。。


 


  
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by lazytown | 2012-06-30 23:34 | 聞いてもらってもいいですか?

最近好きな話②

最近好きな話①のつづきですわ。。(字数がおおくって、のりませんでしたの。)

この記事は、①のつづきなので、そこから、読んでくださいね。(長いですけど、、ねずきちのひとりごとさんの、「エクゼターとエンカウンター日本の武士道精神」よりの転送が①にのっています。)

さて、、

映画「戦場をかける橋」とかで、日本人が、英国人、米人捕虜にした好ましくない虐待行為はでかでかととりあげられても、日本兵がされた行為や、道徳的な行為はなかなか知られない。

わたしの、だんなのおじいさんも東南アジアにて日本人捕虜となり、つらい思いをしてきたことで、いろいろな話をきかされたんですわ。。。

マークス寿子さんが書かれた「戦勝国イギリスへ日本の言い分」 という本にもかいてありますが、虐待されたといわれている、捕虜のかたがたに、日本は賠償金を払っているのです。

たしかに、虐待行為はいけないことだとおもいますが、戦時中におこったことで、きたない、いやな出来事は山のようにあるとおもうのです。

とおもったら、こんなニュースもみつけた。今年のニュースです。


戦争はいやですわね。。


また、話がそれましたが、英国にすんでいて、いやというほど、日本人の残酷さをきかされていたわたしにとっては、このようなお話は、とってもうれしいです。
この元本を書かれた恵隆之介さんが、話しているのを、転送させていただきます。


転送ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1.現在も英国内には大東亜戦争中帝国陸軍の捕虜になった旧英国兵が、
その処遇を恨んで、激烈な反日活動をしております。

細川バカ首相の頃には、この首相がこの輩に謝罪し、
「慰謝料は在英の日本企業から払わせる」
と発言したものですから、大変な混乱を生じてしまい、
在英日本人会は大騒ぎになったこともありました。

ところが1998年4月29日、
フォール卿が、ロンドンタイムズに

「戦時中、日本帝国海軍に捕虜になったが友軍以上の処遇を受けた」

と投書したところ、
読者に感動を与え、
以降この反日活動は急速にトーンダウンしていきました。

しかし、この行為自体、
当時としてはそうとう勇気を要するものでありました。

2.1987年5月 東芝ココム事件が発覚し、
冷戦下まっただ中でかつ対日貿易赤字増大で米国内では、
もの凄い日本叩きが起きました。

またこの頃、欧米で、
大東亜戦争中の日本軍の行為をなじる動きがありました。

この時、米海軍のアーレイ・バーク大将らが日本擁護に動き、
騒ぎは沈静化しました。

実は米海軍機関誌「プロシーディングス」新年号に、
フォール卿が「騎士道」と言うタイトルで工藤艦長の行為を絶賛しており、
米海軍はこれを7ページにわたって特集したのであります。

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転送終わり

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アマゾンでも現本をさがせましたのよ。

ちょっと、高くって買うのはやめちゃいましたけど、、(爆)




日本語のこの物語「敵兵を救助しろ」は、こちらです。


それにしても、この、サミュエルさんって英国人も、義理がたい誠実な人だな。。



どうもありがとうございます。



ところで、、わたしが思ったのは、この話は、この話で大好きで、素敵な話なんですけど、やっぱり、こういうふうに、人助けに成功したからよかったので、罪にもとわれませんが、もし、、もし、、万が一、このときに、敵機がきて、やられてしまっていたら、、とおもうと、美談になりませんよね。。

わたしがいいたいのは、だから、、歴史っていうのは、どちらにもころがるっていうことなんですわ。いいほうにも、わるいほうにも、、

人生ってそういうもんですわ。

だから、太平洋戦争を、「軍部が国民の意向とは反して戦争にいかせた」と、短絡的に、結論に持っていくのは、それこそ、歴史をちゃんとみていないということじゃないかとおもいます。結果論なら、だれにでもいえますものね。それに、誰も、日本のためを思わなかった人はいなかったとおもいますわ。(そりゃあ100パーセントとはいえませんけど)


戦争は、どんな戦争でもいいものじゃないですわ。だって、殺人ですよ。
だれだって、いやですわ。
だれだって、避けたいですわ。

でも、日本の軍国主義によって、、」だなんて、こわそうに、ひとくくりにしてしまってもいけないと思うのです。

あの時代の、背景、、なぜ、戦争になったか??に、目をそむけていては、いつまでも、日本は、「軍隊」イコール「怖い、、戦争」になって、防衛のための、軍ももてなくなってしまうのは、それこそ、あっぱらぱーですわ。

スイスみたくなればいいなーーっておもう。(ぽちっておしてよんでみたください。「おつるの秘密日記酒と薔薇と愛の日々」さんのこの記事に、くわしくのっています。)




 
どんなときでも、一歩まちがえれば、正と悪みたく、わけられちゃうことがあるもので、人生って、つくづく、おもしろいな。。ともおもいます。(悪にされたらかなわんけど、、苦笑)


ああ、、
今日も長くなりました。。サンデーローストデイナーが、、、こげているにおいがします。。。(汗)


それではまた。。。
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by lazytown | 2010-12-20 02:26 | 聞いてもらってもいいですか?

最近好きな話。。。①

ねずきさんのところで、読んで以来、大好きな話だ。

公式サイトもあって、詳しくかかれていますが、ねずきちさんが、公式サイトをもとに、読みやすく編集(笑)してくださっているので、それを転送させていただきます。


ねずきちのひとりごと、「エグぜスターと、エンカウンター日本の武士道精神」より、、

ここから、転送です。

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2008年12月7日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(89)は66年の時を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作氏の墓前に、念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。

大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿は、戦後英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られている人物です。

外交官定年退職後、1996年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓。

彼は、その本の巻頭に

 「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」

と記した。


そしてサムエル・フォール卿は、工藤俊作氏を、「命の恩人である」として、自らの体験談を綴りました。

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1942年3月1日、英重巡洋艦「エクゼター」(13,000トン)、「エンカウンター(1,350トン)は、ジャワ海脱出を試みて日本海軍の艦隊と交戦し、相次いで撃沈されました。
そして両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵が漂流の身となります。

翌3月2日、午前十時ごろには、彼らは生存と忍耐の限界に達し、一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとまでしてた。


そのとき、偶々、単艦でこの海域を哨戒中であった日本の駆逐艦「雷」が、漂流している英国乗組員を発見します。

日本の駆逐艦「雷」の乗員は220名。
漂流する敵将兵は450名余。

さらにこの海面には、敵潜水艦が多数徘徊しており、艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったそうです。

しかし、「雷」艦長の工藤俊作少佐(当時)は、敵英国水兵の救助を決断し、艦を停止します。

そして敵兵を自艦に救助する。

救助の時点で、工藤艦長は、英国兵達の体力が限界に達している事に気づきます。

そこで万一のためにと警戒にあたらせていた要員も救助活動に投入。

いちぶの英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできなかった。

そこで、竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海に沈んで行く者もあった。

そこで工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませます。
そして気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げた。


サムエル・フォール卿は、当時の状況をこう回顧している。

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「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。

ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。

私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。
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さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労った。

当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。



戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々ある。

だから、そうとう温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は違った、
艦を長時間停泊させ、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助した。
しかも相手は敵将兵です。


それだけではない。

工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助した。

戦場の常識ではありえないことだった。
そして、422名が救助された。


救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語でこう訓辞したといいます。

「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」


そして艦載の食料の殆どを供出して歓待してくれた。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けてきたそうです。

工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県の生まれです。

工藤俊作氏は、明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。

明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼した。

工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。

「平民でも海軍仕官になれますか」

担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。

そして工藤氏は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験だった。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できなかった。

ところが日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できた。

英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたといいます。

工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学します。

その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していた。

海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新した。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけた。

鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任します。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

工藤艦長の着任の訓示。

「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」

乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

工藤氏は日頃士官や先任下士官に、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていたといいます。

見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、
「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。

艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。


昭和16年12月8日に大東亜戦争開戦。

開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めた。

日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。


フォール卿は語ります。

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艦長とモーターボートに乗って脱出しました。

その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。

この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。

見渡す限り海また海です。
救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。

この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。

しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

しかし一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。

死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。

翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。

仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めた。

軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。
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このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。

二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」
「漂流者四〇〇以上」
と次々に報告がはいる。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じた。


フォール卿は語ります。
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午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。
当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。
そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。
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ここで工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけた。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

工藤氏は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらます。


佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。
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筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。

敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。

五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。

それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。

その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。

彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。

当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。

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浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。

甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。

この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断する。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

この期に及んで敵も味方もなかった。

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。
一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。
救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。

便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。

工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。


フォール卿が語ります。
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私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。

『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。

われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。

しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。

私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。

これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。

すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

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「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。

「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後である。
そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。

舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、

「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。

高橋中将は

「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。

移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。

とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。

副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。

「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となって終戦を迎えます。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。

1979年に胃癌のため死去。

生前は上記の 事実は家族にも話さなかった。

理由は、雷がその後戦没しており多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念からだったといいます。

ご家族がこの話を聞いたのは助けられたフォール卿からです。

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転送おしまい。。


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「最近好きな話②」につづく。。。 



  
 
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by lazytown | 2010-12-20 02:21 | 聞いてもらってもいいですか?

今日は、きくちゆみさんの、ブログから、転送したいとおもいます。。
以下です。。「から、」までです。

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「2001年、米国の中枢を襲った「911事件」から9年。
あれ以来続く「対テロ戦争」と強化される日米同盟。 
あの日、本当は何が起きたのか…
911公式説を次々覆すイタリア映画『ZERO:9/11の虚構』が遂に日本上陸。
あなたは どれだけ 知っている? 公式サイト:http://zero.9-11.jp
*9/11-24 東京都写真美術館でイブニングショー 18:40〜
ーーーーーーーーー

チケットはここで!
http://www.e-select.st/shop/03.html?products=7973」

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イラク戦争のことについては、このときちょっと、かいたけど、9・11のことって、いつもきになることだった。

こうして、真相解明について、平和について、一生懸命にがんばっている、きくちゆみさんは、すごいなあって、おもう。


わたしが、東京にいたら、お手伝いさせていただきたかったです。


ということで、、転送させていただきました。


世界で、この世の中で、本当にいろいろなことがおきていて、悲しいニュースをきくたびに、自分にできることはなにか??とおもうのだ。

くるくるあたまのなかを、かけまわった後、落ち着くことは、「今の自分にできることを、100パーセントの力で、楽しみ、生きること」そして、「知ること」 「バランスをとること」なんだ。。


「知ること」って、、とても、大事だとおもうのだ。。そして、「いろいろな角度でものを見ること」。。

 わたしの大好きな飛行気乗り、リチャードバックの本、「イリュージョン」のなかの、テキストの最後にかいてあったな。。

「このテキストほど無責任な本はない。 この本にかかれてあることを、信じないほうがいい。かかれていることは全て逆の意味かもしれないから。」


この世の中説明できない、不思議なことって、いっぱいあるとおもう。そして、説明できないと、証明できないと、それは、「そンなことはない」といって、奥のほうに、おしのけられてしまうことがいっぱいある。

コンピューターって、あまりすきではないけど、でも、こういう風に便利になっって、比較的簡単に世界各国のひとたちと、情報交換ができて、むかしだったら、実証できなくて、おくらいりしてしまっていたのが、こうして、「おかしい???」とおもったひとたちが、協力しあって、「不思議なこと」「ありえないこと」が、真相解明までいきつけるようになったりするのは、すごいな。。とおもう。

きっと、それを利用して、悪いことをする人もいるし、フェイスブックとかで、いじめとかが、おきているのだから、やっぱり、どっちもどっちということになるのかもしれないけど、、

でも、いろいろな情報のなかから、自分で、判断できるような(ちょっとは)世界になっているのだなって、おもう。

だからこそ、「バランス」が必要なんだけど、、


「バランス」。。。。わたしの、人生の課題です。。うひひ。。

 




9・11の映画、、ぜひ、たくさんの人にみてもらいたいですわ!!
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by lazytown | 2010-09-12 00:34 | 聞いてもらってもいいですか?

トニーブレアの、イラク問題についての、証人尋問がおとといの、金曜日におこなわれた。 

彼はいまだに、 9.11のアメリカのワールドトレードセンターの、テロリストアタックは英国人にとっても、世界各国の人々にも脅威をあたえたため、イラクが、大量破壊兵器をもっていると確信して、イラクを攻撃するという、自分の判断はまちがっていなかった。といっている。くわしくは、こちらを、、 

そして、「Ⅰ WOULD DO IT AGAIN」といっている。

そして、さすが、オックスフォード大学で、弁護士になる、訓練をうけただけあって、口は達者で、審査員の質問にも、「ちいさなことをみていたら、おおきなことまで、みえない、、」というような、話の展開のしかたで、けむにまいて、なんだか、イラク戦争に反対している人が、「物事を大きく見ていない」(とのようなことはいってはいないが、、)そのようなきにさせられてしまう(わたしだけか?・)、すごい、話のテクニックだとおもった。。

9.11の、事件のことは、こちらのサイトにくわしくかかれているし、いまでは、日本のてれびでも、とりあげられているので、疑問を持つ人も多いが、、

わたしも、、テロリストの攻撃だったとは、おもわない。


2000年の9月11日のことは、よくおぼえている。
ウェールズにひっこしてきたばかりで、次男を妊娠7ヶ月くらいのわたしは、炭の暖炉をたきながら、裏ドアもちゃんとしまらなくって、ばたばたいっている、ぼろやにすんでいた。

あの日わたしが、ごはんをつくっていると、玄関の隣のコンクリートむきだしの部屋で、部屋をなおしながら、テレビをみていただんなが、「おおーーーーーーーーのんちゃーーーーん!!」とよぶのでいってみると、ツインタワービルが、飛行機に突撃されて、炎があがっている映像が、実況中継テレビでうつっていた。

そして、だんながいったのだ。「あれは、アメリカのしわざだな。。」


その当時(たしか)すでに、イラク問題がもちあがっていて、だンなは、「何かしら、理由をつけて、戦争にもちこむだろう。。そして、イラン、、つぎは、どこどこ(忘れた)と、せめこんでいくのでは、、」とかんがえていたからだ。


わたしは、「考えすぎだよ。そんなこと考える人だれもいないから、だれにもいっちゃだめだよ。なんたって、被害者のひとがきいたら、いい気はしないからね。。どっちにしても、きづついているんだからさ。」

といったが、、あれから、ずうーーっと、かんがえていた。そして、コンピューターをつかえるようになって、いろいろなサイトから、同じことを考えている人がいるのをしった。テレビにも放映されたし、たしか、映画でも、やっていた。かれらは、具体的な、証拠をあげて、詳しく説明してくれている。

ということで、なぜ私がしんじないかということは、こちらのサイトをよんでみてください。

ところで、サダムフセインが、国連決議に違反しつづけた、、、というのなら、このときはなぜ、9サダムフセインが、大量の、生物化学兵器をつかって、クルド人をころしたとき)は、なにもしなかったのでしょうかね。。

そして、最近のことでなら、、このときこのときはどうなんでしょうか??

 
トニーブレア前英首相はSOCIALIST(社会主義者ただ、日本で言う、社会主義者という意味ではなく、こんな意味)だそうだけど、彼は首相をやめたあと、£12億もかせいでいるそうだ。


それにしても、この、証人尋問会って、なんなのだろうか??これによって、この問題がよかったのか、わるかったのか??わるかったら、責任者はだれか。そして、その責任者を、刑務所におくることもないそうです。

ふうーーーん。。
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by lazytown | 2010-02-01 01:11 | 聞いてもらってもいいですか?

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お庭の、ペパーミント。。家が、ずーーーーーっと、工事中で、お庭もなかったのだけど、やっと、ハーブを植える場所だけ、確保することができました。うふふふふふふふ。。。

ところで、酵母パンづいている、わたしですが、きのう、酵母パンそして、石がま焼き、そして、、、と、ブログアンドウェブサイトめぐりをしていたら、おもしろい記事にであいました。

キャンドルナイトというイベントが、日本でですが、この、21日の、夏至の日にあるそうです。

一年のうちの、一番長い日に、2時間だけ、電気をけして、ろうそくですごすこのイベントは、もともとは、カナダで、原子力発電所を、1ヶ月に、1基ずつ建設するという、ブッシュ大統領の、政策に反対する運動(自主停電運動)が、もとになっているそうです。
日本の、サイトにくわしいことが、かいてあるので、興味のあるひとは、よんでみてくださいね。

早速、夫に「土曜日の、8時から、10時は、電気けそうね!!」と、はなしたところ、
皮肉やの、イギリス人の夫はわらいながら、「わかったけど、どうせ、こっちは、8時といってもあかるいし、電気いつもつけてないじゃないの。。それに、、みてみて!!この、CANDLEの量!!二酸化炭素をだして、ろうそくもたくさんつけたら、環境にわるいんじゃないの。。。うひひひひ。。」だってさ、、


まあ、よくかんがえたら、時間もちがうし、世界いっせいに、その時間だけ、まっくらにはならないけどね、、でも、、いいじゃないねーーー。
こうして、ひとりひとりが、ちょっとでも、環境問題について、かんがえるって、ことが、大事なのよ。。ね。。。。。。。。

ということで、土曜日は、2時間電気をけしてみようとおもいます。。。
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by lazytown | 2008-06-20 00:38 | 聞いてもらってもいいですか?

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天気がよかったので、娘の学校の、おむかえのついでに、車をとめて、お馬さんに、草をあげました。最近は、雨ばっかりで、有名な、ウェールズも、お天気奈日がおおいので、お馬さんたちも、生き生きと、うれしそう。。やっぱり、動物だって、お日様がすきなんだよねーー。。。と、おもいました。

ところで、、YUKAKOさんのブログのなかで、紹介されていた、
肉食と環境破壊についてを書いていたブログ(マクロビオティックdeハッピーナチュラル)

のなかでの、ユーチューブの映像は、かなり、考えさせられました。

はやくいえば、肉食が、どんなに、環境破壊に影響を及ぼしているか、、、という映像なのですが、ポールマッカートニーが、ナレーターをしていて、音楽もよく、勉強になりました。
まあ、みているうちに、「ポール!!、そんなこというなら、肉を食べてる人ばっかりせめないで、自家用車減らして、専用ジェットも、売り飛ばし、なくなった、奥さん、りんだサンの、遺産を、環境保護団体かなんかに、寄付しなさいね!!」って、、独り言を、言い出した私でしたが、、、それでも、「人間みんな、完璧じゃないし、やらないより、やったほうがいいわね、、きづくほうが、きづかないよりいいわよね」と、最後には、「OKポール、わかったよ、ありがとね、おしえてくれて、みんなが、一人ひとり、できることをすればいいわよね、あなたも、完璧じゃないし、私も、完璧じゃないけど、地球をかんがえていることは、いっしょだから、おたがいがんばりましょうね」PCに向かって、はなしていた、わたしでありました。
(気持ち悪い、女かしらね)

私がしらなかったのは、たんに、動物をころして、かわいそうだから、ベジタリアンっていうのではないということだった。食肉用の、動物をそだてるのに、おおくの土地が費やされて、森林が切られていることや、農薬のこと、、そういう意味では、選んで、食べていきたいわ。。っておもったのです。わたし自身は特に、肉好きすきよーーってわけでゃないので(けど、血の滴るような、フィレステーキは大好きだけど、、焼肉もすきだわ、、ア、、私って、知らずに、肉ずきか??笑)、日本にいるときは、たまにしかたべず、えらんでたべていたのだけど、うちの、夫は、肉食!!なもので(笑)、今は、毎日、何かしら、肉系を、料理しているので、気をつけたいな。。。とはいっても、家計のこともあるし、いろいろと、急に、ベジタリアンになるのは、むずかしいのだ。

このあいだも、放し飼いの、鶏の卵を買ってこなかった、夫と、けんかだしね、、わはははは。

なんだかんだ、いっても、家庭仲良く、、そして、あまりかんがえすぎて、ストレスためちゃっても、よくないし、自分にできる方法で、自然にやさしく、環境保護をやっていきたいとおもいます。あとは、たべるときには、いつも、感謝のきもちをわすれずにたべれば、いいのじゃないかな??ともおもいます。(なんだか、すごい、優等生になった気分だわ。。わはははは)

ベジタリアンではなくても、環境保護に、興味がなくても、ちょっろと、みんなに、みてほしい、ビデオでした。

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ゆったりとした、風景。。きばらずに、ゆったりと、生きて生きたいですわ。。
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by lazytown | 2008-05-15 23:13 | 聞いてもらってもいいですか?


このごろ、ずっと、きになっていたニュース。。なんとか、文字にしたいとおもいながら、日々の生活におわれ、ゆっくり時間をけけて、政治的なことを、文章にするのは、むずかしいわ。。。とおもっていたところ、ふるーーい、おつきあいの、大好きな友達れいこさんから、こんな、メールが、きたので、それは、このままのせます。。。
以下、れいこさんからの、メール。



ここ数日のニュースなどで知ってると思うけど
今チベットのラサで大変なことが起こっています。

縁あってインド在住のチベット人家族と深い交流がある私としては
この問題にとてもとても心を痛めており
なにか私にできることはないかといろいろ調べ
少なくともできるだけ多くの友人にこのことを伝えて
力を合わせていきたいと思っています。

現在中国当局が外国の報道陣をすべてシャットアウト
しているので、なかなか真実が掴みにくいけれど
信頼できる情報筋と
いまチベットを救うためにできることetc. 関連するサイトを
お知らせするので、もしこのことに関心を持ってもらえたら
どうかご協力をお願いします。

ではまた~
取り急ぎお知らせまで!


■ダライラマ法王事務所
・http://www.tibethouse.jp/home.html
------------------------------------------------
■TSNJ(チベット・サポート・ネットワーク・ジャパン)
http://www.geocities.jp/t_s_n_j/


■チベット式 (blog:今回の騒動について分かりやすくまとめてあります。)
 http://tibet.cocolog-nifty.com/









はい、ここからは、私、のんちゃん
もしよかったら、上のサイトにいって、みてみてくださいね。。。
わたしは、どうおもっているかって??

わたしは、チベットの、独立を、応援しています!!もともと、チベットは、独立国だったのだし、、このまえ、こどもの、世界地図をみて、チベットのところが、中国とかかれていて、一人で、腹をたてていました。。

政治的なことを、語るのは、私は、本当に、似つかわしい人間ではないので、(はははは)やめておきますが、世界には、いっぱい、自分だけ怒っても、どうしようもないことがあって、怒りきれないので、でも、念じればかなうじゃないけど、、(ぜんぜんちがうか。。)知っているのと、知らないのでは、おおきなちがいがあるとおもうので、私の、ブログに、のせてもらいました。。

それでは、、、ピースアンドラブ、、、ですわ。。。
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by lazytown | 2008-03-22 07:53 | 聞いてもらってもいいですか?

今日は偶然おじゃました、yamacco日記(yamacco.exblog.com)の、yamaccoさんの、ブログから、転送させて、いただきました。。


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青森県六ヶ所村の再処理工場が2月から本格稼働されるそうです。
こういうことが世間であまり知られていない、ということにいつも疑問を感じています。
特別なことが出来るわけじゃないけれど、知っていると知っていないとでは何か違うはず。

というわけで、
ミクシィのお友達万葉さんの日記から転送させていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

みなさん、六ヶ所村再処理工場って知ってますか?
私は、六ヶ所村ラプソディーという映画を見るまで知りませんでした。
http://www.rokkasho-rhapsody.com/

私達の未来にかかわるこんな重大な事実が、今まで知らされることがなかったなんて!!

きっと日本中の多くの人が、この重大な事実をまだ知りません。
私は、この重大な事実を少しでも多くの人に知ってもらいたい!、そう切望しています。


青森県にある「六ヶ所村再処理工場」は、日本国内の各原子力発電所で燃やされた使用済み核燃料から、燃え残りのウランとプルトニウムを取り出す工場です。
この六ヶ所村再処理工場は、2008年2月に本格稼働する予定なのですが、この工場が稼働すると、
事故が起きなくても、原子力発電所が出す1年分の放射能をたった1日で放出することになるのだそうです。

放出された放射能は消えることなく空と海の両方にひろがり、東北地方はもとより東日本全域が、放射能汚染の直接的な脅威と恐怖にさらされます。
放射能はプランクトンや魚、植物等によって生体濃縮され、人間が食べ物から摂取した際には数万倍から数百万倍の濃度になると予想されます。

さらにその影響をもっとも受けるのは成長途中の子供達です。
育ち盛りの子供の細胞分裂のスピードは大人よりも早く、
子供の場合は大人の10倍
胎児の場合は大人の100倍 の被害を受けるといわれています。

この再処理工場の問題は、本当に他人事ではないのです。
このような再処理工場稼働のニュースが、私達の耳にこれまであまり伝わらなかった事が不思議でなりません。

本格稼働はもう間近!!
でも、今ならまだ止められます。
日本中の人がこの事実を知れば、止めることができるのです。

実際にイギリスのセラフィールドの再処理工場では事故が起こり、まもなくイギリスは再処理から撤退します。
このセラフィールドでは、海洋汚染も深刻で、この近辺では小児白血病の発症率が通常の10倍であり、奇形の魚介類も多いそうです。
イギリスのセラフィールドのように前例があるのです!!


是非、この事実をあなたの大切な人に知らせて下さい。
是非、この事実を次の人に渡して下さい。
私達はこの企画を「六ケ所村ペイフォワードPROJECT♪」と名づけました。

よかったら、この日記をあなたの日記(ブログ)に転載していただけませんか?
そして、あなたのマイミクさん方をはじめ、あなたの大切な方々にも、それぞれの日記に転載していただけるようお願いしていただけませんか?
できれば、メールでも転載をお願いしていただけると、より広がりをみせると思います。

そしてそして、日記(ブログ)に転載してくださった方、もし、もしよろしければ、六ヶ所村ペイフォワード♪のコミュニティーに参加していただけませんか?
このコミュニティーの参加人数で、このPROJECT♪の広がりを知ることができます。

是非、あなたの力を貸してください。
このメッセージを多くのマイミクさん達に繋げてください。
このメッセージが広がりを見せること=六ヶ所村を止める大きな波になるのです。
大きな波を作るためには、あなたの橋渡しがが必要なのです。

今なら、まだ間に合います。

手遅れにならないうちに・・・・。
未来の子供達のために・・・・。

みんなの力で、
想いを繋げていきましょう。


是非、こちらもご覧ください!!
あの田中優さんが、わかりやすく説明しています。
http://jp.youtube.com/watch?v=Lt9hXuEfu7w

六ヶ所村ラプソディー予告編
http://jp.youtube.com/watch?v=fb9K_gutJfU&feature=related

止めよう六ヶ所村再処理工場
http://cnic.jp/modules/rokkasho/index.php?content_id=7



「一人の力は微力だけど無力ではない」
「動けば、変わる!」


私の大好きな言葉です♪


こちらも是非是非ご覧ください
PROJECTの内容、活動のきっかけ、田中優さん講演会映像、ペイフォワードとは?などなど、盛り沢山の内容のめちゃめちゃ素敵なホームページです
http://6payitforrward.web.fc2.com/index.html


コミュニティー「六ヶ所村ペイフォワード♪」への参加はこちらから

http://mixi.jp/view_community.pl?id=2944380



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この世の中知らないことが、たくさんあります。そして、自分ひとりじゃできないこともいっぱいあります。まあ、ウェールズの、どいなかにすんでるわたしに、できることは、この情報を、わたしの、ブログにのせることくらいかもしれないけど。。。(しかも、今のところ、ぐりちゃんくらいしか、読んでないだろーけどさ。。。)
いつか、誰かが偶然でも、わたしの、ブログに、あそびにきて、これを、転送してくれたらいいな。。と。。それよりも、知ってくれたら(六ヶ所村について)、いいな、、、と、おもいます。知るってとても大事なことだとおもうから。。

それでは、また明日。。

ふーー。これ転送して、ブログにのせるのに、2日かかったよーーやれやれ。。。ののののの。。。
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by lazytown | 2008-01-21 22:57 | 聞いてもらってもいいですか?